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2023年05月19日 モニカ・セレス殺傷事件から30年(前編)

刃物を刺す.jpg

女子テニスファンになるきっかけ

 女子テニスのモニカ・セレス選手(アメリカ)が、テニスの試合中、暴漢に襲われる事件が起こったのは1993年、それから30年が経ちました。(総合テニス専門サイト「テニス365)

 日本でも大々的に報道され、まさかこんな事件が起こるとは・・・と衝撃を受けたことを今でも覚えています。

 私は当時高校生でしたが、テニス、特に女子テニスに夢中だったのでセレスのことも良く知っていました。

 フォアハンド・バックハンド共に両手打ち(ほとんどの選手がフォアは片手打ち)というプレイスタイルで、大きな唸り声をあげながら強打しまくる異質の存在でした。

 だからという理由ではありませんが、セレスではなく、ガブリエラ・サバチーニ(アルゼンチン)という選手にとても惹かれました。

 事件の約2年前に日本で行われた東レ パン パシフィック オープンテニスのテレビ放送をたまたま目にし、そこで華やかなプレイをするサバチーニの大ファンになりました。

 当時は今のようにインターネットは普及しておらず、試合結果などの情報は、テニス雑誌からしか得られませんでした。

 今まで買ったことがないテニス雑誌を片っ端から購入し、あの大会の結果はどうなったのだろうか?と想像しながら毎月の発売日を楽しみにしていました。

 本当は実際にプレイしている姿を見たかったのですが、当時のテレビ放送は4大大会(グランドスラム)と、日本で行われる大会に限られていました。

 放送される試合は全て録画し、サバチーニが出ていない試合も含めて全て見ました。

 他の選手の調子やプレイスタイルの変化などもチェックし、とにかくサバチーニに世界ランキング一位になってほしいと願いながら熱心に応援しました。

当時の女子テニス界

 1991年の前半は、セレス、シュテフィ・グラフ(ドイツ)、サバチーニの3強時代でした。

 一時期セレスはサバチーニに強く、グラフはセレスに強く、サバチーニはグラフに強いという三つ巴の状態となり、トーナメントの組み合わせ次第で、三人に有利な展開が変わる非常に面白い状況でした。(第三シードのサバチーニがトーナメントの上の山か、下の山かによって)

 しかし、サバチーニは二人に比べて精神的にやや弱く、準決勝、決勝などのここ一番で弱さを見せることが多く、勢いに乗ることができませんでした。(この大会で決勝に進めば、初めて一位になれるという惜しい瞬間もありましたが、結果は3回戦敗退でした)

 特にサーブに問題を抱えており、相手にセカンドサーブを狙われ、叩かれて守備的な展開になるシーンが多く見られました。

 92年の全仏準決勝でセレスに接戦の末、敗れてからは徐々に勢いがなくなり、その後、セレス・グラフの2強時代に突入しました。

 2強とは世界ランキングのポイント・実力でも差が開いていくばかりで、ファンから見ても二人には敵わないと感じ始めた時でした。

拮抗状態.jpg

2強時代

 その中でもセレスの勢いはすさまじく、91年から93年の4大大会で出場した8大会中7大会で優勝、もう1大会も準優勝という圧倒的な強さでした。(グラフに負けた1大会は試合中の唸り声がうるさいと対戦した選手たちに批判され、マスコミからも面白おかしく報道され、決勝は唸り声を自粛したために本来の実力を発揮できなかったように見えました)

 セレスに対抗できる選手は実質的にグラフ一人という状況でしたが、グラフはセレスの待つ決勝戦(セレスが第一シード、グラフが第二シード)に辿り着く前に敗退することが多く、二人の対戦がなかなか実現せずにファンをやきもきさせていました。

 グラフはセレスが登場する前に圧倒的な強さを誇った女王でした。

 1988年には4大大会とオリンピックを同一年に全て制覇するゴールデンスラムを達成した男女唯一の選手であり(現在でもその記録は破られていない)、186週間連続一位に君臨していました。(約3年半)

 セレスの出現でその勢いに陰りが出始め、他のライバル選手(サバチーニ、アランチャ・サンチェス、ノボトナなど)の台頭やグラフ対策(弱いバックハンドを狙ってネットに出る)が広まり、成績が低迷した時期もありました。

 ただ、セレス同様、月日を重ねるほどに強さを増していき、二人のレベルは他の選手を明らかに超えていました。

 事件の3か月前の全豪決勝はセレスが勝ちましたが、負けたグラフがプレイ内容に満足していると答えるほど、今までの女子テニスの中でも最高と呼べるほどレベルの高いものでした。

 当時リアルタイムで試合を見ることはできませんでしたが、こんな試合がこれから何度も見られるのかと楽しみにしていました。

事件の発生

 1993年4月30日、ドイツのハンブルクでのシチズン・カップ準々決勝(マグダレナ・マレーバ戦)の最中、セレスが暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺される事件が発生しました。

 日本のニュース番組でも刺された直後、セレスがコートに座り込み、泣いている衝撃のシーンが流れました。

 犯人がグラフの熱狂的なファンだったということも事件が話題になった要因の一つでしょう。

 犯行目的は、「セレスがいなくなればグラフがランキング一位に返り咲けると思った」というもので、皮肉にもその通りの結果となりました。

 セレスは「憎らしいほど強い」という言葉がぴったりで、他の選手を応援するファンの、いなくなってほしいと願う気持ちは、サバチーニのファンだった私にも分からないものではありませんでした。

 しかし、想像することと、実際に行動に移すこととは大きな違いがあり、犯人の行動は決して正当化できるものではありません。

 結局、セレスは事件後2年以上ツアーを離脱しました。

後編に続く。

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